サリンと原発 元自衛官語るリアル
2025/06/15 (日曜日)
国内ニュース
サリンと原発の放射線…見えない敵と戦った元自衛官 「あの日、私も怖かった」 退官後に語る現場のリアル
1995年3月20日の地下鉄サリン事件と、2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発事故──いずれも「見えない敵」との戦いを余儀なくされた日本。中央特殊武器防護隊に所属し、化学防護車やNBC(核・生物・化学)防護服での地下鉄除染や、地上放水による原発冷却活動を指揮した元陸上自衛官・宮澤重夫さんは、「あの日、私も怖かった」と退官後も語り続けています。そのリアルな体験談は、いまなお隊員や地域住民の防災意識を喚起し続けています。
1995年3月20日、東京メトロ霞ケ関駅など複数の駅構内でオウム真理教による神経剤「サリン」が散布され、13名が死亡、6,000名以上が負傷しました。警視庁・消防庁だけでは対応困難と判断された現場に、陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊が初めて緊急出動。隊員はNBC防護服を身にまとい、化学防護車のレーダーと線量計で周囲のガス濃度を測定しながら、線路上やホーム、車両内の除染作業を行いました(出典:日テレNEWS NNN)。
防護服は重さ15kg超、酸素ボンベを背負いながら25度を超える地下構内での作業は過酷を極めました。除染剤の散布や高圧洗浄でサリン残留を除去するたびに、線量計代わりのガスマスク警報は激しく鳴動。宮澤さんは「毒ガスは目に見えず、しかも触れた瞬間に神経症状が出る恐怖があった」と振り返ります。隊員同士で声を掛け合いながらの作業は2週間にわたり、技術と精神力の両面が試されました。
2011年の福島第一原発事故では、炉心溶融を防ぐため4号機燃料プールへの緊急放水が必要となりました。宮澤さんは3月20日深夜、特殊消防車を用いた地上からの放水隊長に任命されます。被災建屋に近づくにつれ、線量計の針は警報域に達し、累積被ばく量は2日間で約20ミリシーベルトに上りました。これは一般人の年間許容線量の約20年分に相当する数値です(出典:livedoorニュース)。
中央特殊武器防護隊は1996年に設立され、NBC防護服、化学防護車、ガスマスク、高性能ガス検知器などを装備しています。地下鉄除染ではガスマスク内圧を一定に保つマスクブロー機能、原発放水では放射線遮蔽性能を強化した防護服と、各専門機材を駆使。さらに、化学・放射線両対応の教育訓練を年間数十回実施し、全国の師団や地方隊と合同演習を重ねています。
サリンや放射線という目に見えぬ脅威に長期にわたりさらされた隊員には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や慢性身体症状が報告されています。宮澤さん自身も事件から2年後に夜間覚醒や呼吸困難、原因不明の下痢に悩まされ、退官後も自衛隊中央病院での通院を余儀なくされています。このような心身ケアの必要性は、自衛隊内外で見過ごせない課題となっています。
退官から7年、宮澤さんは自身のブログやSNSで体験談を発信し続けています。除染や放水中の心境、装備の使い方、任務時の恐怖と使命感を赤裸々に綴り、「自衛官である以上、たとえ恐怖に震えても一歩を踏み出さなければならない」と訴えています。この発信は、防災教育や若手隊員の意識向上に資するとともに、地域住民の理解を深める貴重な教材となっています。
米国では1972年海洋哺乳類保護法ではなく、海軍化学核生物部隊(US Navy CBRN)や陸軍化学部隊が高度な装備と訓練を整備し、民間緊急対応機関とも連携。一方、欧州ではNATO共通基準のNBC対応訓練を実施し、民間消防や警察との合同演習も常態化しています。日本も東日本大震災以降、自治体や国際機関との協働演習を増やし、C-BRN対策能力の強化が進んでいます。
日本の自衛隊災害派遣要件や放射線防護指針は充実していますが、心身ケアや退官後の健康フォローアップ制度は十分とは言えません。また、化学剤対応や放射線事故時の装備更新サイクル、地域住民への情報提供方法にも改善の余地があります。被災隊員への補償制度強化や、民間専門家との連携窓口整備が求められています。
「見えない敵」との戦いは、物理的脅威だけでなく心の傷をも残します。宮澤重夫さんの体験は、NBC防護隊の技術力とともに、人間がいかに恐怖と向き合い、任務を全うするかを示す貴重な証言です。このリアルな記憶を次世代に伝えることで、日本の防災・危機管理能力はさらに向上し、いざという時に多くの命を守る礎となるでしょう。
出典:日テレNEWS NNN「サリンと原発の放射線…見えない敵と戦った元自衛官 『あの日、私も怖かった』」/livedoorニュース「元自衛官が語る現場のリアル」
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