ガルベス氏 長嶋さん気遣いに感謝
2025/06/07 (土曜日)
スポーツニュース
“丸刈り”「僕が原因なの?」 “悪童”助っ人ガルベスが語る長嶋茂雄さんの「本当の姿」
戦後最大のスター長嶋茂雄さんの訃報を受け、海外からも惜しむ声が上がっている。
1996年に16勝を挙げ、セ・リーグ最多勝利投手となった、バルビーノ・ガルベスさん(61)。 ドミニカ共和国出身のガルベスさんは、同年、テスト生として巨人の春季キャンプに参加。いきなり時速150キロ超の速球を連発し、長嶋監督がほれ込んで入団が決定。大逆転でリーグ制覇した「メークドラマ」の原動力となった。
2025年6月、戦後最大のスターと称された長嶋茂雄氏(享年89)の訃報が伝えられると、国内外のスポーツ界から惜しむ声が相次ぎました。米陸上界の伝説、カール・ルイス氏をはじめとする世界的アスリートが哀悼の意を示したほか、フランスのニュース専門チャンネル『FRANCE24』や米メディア『Athlon Sports』も長嶋氏の功績を称えました。本稿では、1996年にセ・リーグ最多勝(16勝)を記録し、読売ジャイアンツ“メークドラマV”の原動力となったドミニカ共和国出身投手バルビーノ・ガルベス氏(61)の来日からその後までを振り返りつつ、当時の背景や歴史を詳しく解説します。 :contentReference[oaicite:0]{index=0}
“ミスタープロ野球”として1950年代後半から巨人の顔となり、現役時代17シーズンで数々のヒットを重ねた長嶋氏は、引退後も監督として1975年と1976年に連覇を達成。ファンとの一体感を大切にしたスタイルは、当時の白黒テレビを通じて日本中の家族に感動を届けました。訃報を受けては、大谷翔平選手やカール・ルイス氏らがインスタグラムや取材で「自分の野球人生に欠かせない存在だった」と語るなど、その影響力は世代を超えています。 :contentReference[oaicite:1]{index=1}
バルビーノ・ガルベス氏は1996年2月、テスト生として巨人の春季キャンプに参加。来日直後から時速150kmを超える速球を連発し、長嶋監督が「実戦タイプです」と太鼓判を押したことで即入団が決定しました。入団契約は当初2,000万円と報じられ、プロとしては破格の条件でしたが、その期待に違わぬパフォーマンスで一気に先発ローテーション入りを果たしました。 :contentReference[oaicite:2]{index=2}
1996年の巨人は、開幕当初こそ不調にあえいでいましたが、中盤以降斎藤雅樹、槙原寛己、川口和久、西山一宇らに続いて先発の柱となったガルベス氏が16勝をマーク。チームメイトの斎藤氏と最多勝を分け合い、前年11位からの大躍進で「メークドラマV」を実現しました。特に5月19日のヤクルト戦では完封勝利を飾り、一気にファンの心をつかみました。 :contentReference[oaicite:3]{index=3}
一方でガルベス氏は、試合中の乱闘事件でも知られました。1996年5月1日の中日戦では山崎武司選手との衝突がきっかけで激しい乱闘となり、その直後に出演した日本酪農乳業協会のCM「カルシウム不足、していませんか?」で意外な人気を博すというエピソードも残っています。“暴れん坊助っ人”という異名は、この一幕で決定的となりました。 :contentReference[oaicite:4]{index=4}
長嶋監督はガルベス氏の才能だけでなく人間性にも着目し、試合後にはバッティング練習で直接指導を行うなど信頼を寄せていました。試合中の乱闘時にも「彼は若いから仕方ない」と庇い、チーム内外から“紳士ミスター”として尊敬を集める姿が印象的でした。氏が引退後も両者の交流は続き、ガルベス氏自身が「偉大な師」と語るほど深い絆がありました。 :contentReference[oaicite:5]{index=5}
ガルベス氏は1999年に巨人史上初の外国人開幕投手を務めた後、2000年まで5シーズン在籍し、通算46勝を挙げて球団を支えました。その後は母国ドミニカで若手育成に携わる傍ら、日本でも講演活動や野球教室を精力的に展開し、“平成のメークドラマ”世代に夢を与え続けています。 :contentReference[oaicite:6]{index=6}
長嶋氏の訃報には、米『Athlon Sports』や仏『FRANCE24』が「日本野球の礎を築いたスーパースター」と伝え、ドミニカ共和国でも「ガルベス氏にとっても恩師であり、人生の師だった」と報じられました。両者にとって特別な存在だったことが、各国メディアの追悼記事からもうかがえます。 :contentReference[oaicite:7]{index=7}
長嶋茂雄氏の逝去は昭和・平成の巨星がまた一人去ったことを意味しますが、その背景には無名のテスト生から最多勝投手へと駆け上がったバルビーノ・ガルベス氏の存在がありました。乱闘もあった“悪童”エピソードと、指導者としての長嶋氏の器量に見出された逸材としての素顔――二つの側面が重なってこそ、1996年の「メークドラマ」は完成しました。今後も両者の伝説は、後進の指針となり続けるでしょう。
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