長嶋茂雄さんが死去 89歳
2025/06/03 (火曜日)
長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が死去、89歳…巨人の黄金時代築いた「ミスタープロ野球」
プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で死去した。89歳だった。
1936年、千葉県臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立教大に進み、東京六大学リーグでは、57年秋に、当時の六大学記録を破る通算8本塁打の新記録を作った。
58年に巨人に入団し、打点王、本塁打王の2冠に輝いて新人王を獲得。翌59年には、初の天覧試合でサヨナラ本塁打を放つなど、無類の勝負強さで、ブームを巻き起こした。王貞治選手とのコンビは「ON」と呼ばれ、65年からのV9の中心選手として、黄金時代を築き上げた。
長嶋茂雄は、単なる野球選手や監督という枠を超え、まさに日本の国民的ヒーローとしてその名を刻んでいます。彼の現役時代の輝かしい成績はもちろんのこと、その人間味あふれるキャラクターと、数々の「名言」そして「迷言」は、多くの人々に愛され、語り継がれてきました。
長嶋茂雄は1958年から1974年にかけて読売ジャイアンツの4番打者として活躍し、その勝負強さと華麗なプレーで「ミスタープロ野球」と称されました。V9時代の巨人を牽引し、ジャイアンツでの4番出場試合数は歴代最多記録を誇ります。
大学卒業後のプロ野球選手として史上初の400本塁打と2000安打を同時達成。また、セ・リーグ最多となる6回の首位打者獲得など、数々の金字塔を打ち立てました。
彼の凄さは、単に数字だけでは語れません。プロ野球が「遊び」と蔑まれていた時代に、そのネガティブなイメージを払拭し、国民的スポーツへと昇華させた立役者でもあります。特に1959年の天覧試合では、異様な緊張感の中で放った劇的なサヨナラホームランが、プロ野球を日本を代表するスポーツとして確立させる大きなきっかけとなりました。
また、長嶋茂雄は常に観客を意識した「魅せる野球」を追求していました。大振りのヘルメットを被ってスイングの反動で飛ばしたり、簡単なゴロでもファインプレーに見せるためギリギリで捕球したりと、エンターテイナーとしての才能も持ち合わせていました。盟友の王貞治氏も「技術に関しては長嶋さんより(自分のほうが)上だと確信している。しかし、長嶋さんが私と違っていたところは、プロ野球を”見せる芸”として把えていた点だ」と語るほどです。
引退後も、2004年に脳梗塞で倒れてもなお、「アテネに行く」「東京オリンピックに何らかの形で関わる」という強い目標を掲げ、想像を絶するリハビリに励みました。2021年の東京オリンピック開会式での姿は、日本中を感動させ、「努力の人」としての彼の揺るぎない精神力を示しました。
1974年の選手引退後、長嶋茂雄は翌1975年に巨人軍の監督に就任します。最初の監督時代はチームの低迷もあり、1980年に辞任しますが、1993年に再び監督に復帰。すると、翌1994年には日本シリーズを制覇し、1996年には「メークドラマ」という流行語を生み出し、11.5ゲーム差をひっくり返す奇跡的な逆転優勝を成し遂げました。2000年には再び日本シリーズを制覇し、2001年に監督業を勇退しました。
彼の代名詞ともいえるのは、引退セレモニーで発せられた「わが巨人軍は永久に不滅です」でしょう。当初の原稿は「永遠」だったと言いますが、本番で「永久」と読み違えたことが、かえって人々の記憶に深く刻まれる言葉となりました。
また、監督時代の逆転劇を表現した「メークドラマ」は、1996年の流行語大賞にも選ばれ、その後の野球界だけでなく、様々な分野で「メークミラクル」など形を変えて使われるほどの影響力がありました。
監督退任時の会見で「長嶋茂雄にとって野球とは?」という質問に答えた「野球というスポーツは人生そのもの」という言葉も、野球に全てを捧げてきた彼の生き様を凝縮した名言です。
長嶋茂雄の魅力は、その華やかさだけでなく、思わず笑ってしまうような「迷言」や「天然エピソード」にもあります。代表的な迷言としては:
妻である亜希子さんの影響で和製英語を多用するようになったと言われますが、彼なりの解釈が加わることで、独特の長嶋節が生まれ、人々を和ませてきました。
数々の天然エピソードも語り草です:
これらのエピソードは、野球に全てを懸け、それ以外のことに無頓着な長嶋茂雄の純粋さ、そして人間味あふれる側面を私たちに教えてくれます。
長嶋茂雄は、野球選手、監督としてだけでなく、その唯一無二のキャラクターで、多くの人々に夢と感動、そして笑顔を与え続けてきました。彼の存在は、まさに日本プロ野球の歴史そのものであり、これからも語り継がれる「永久に不滅」のヒーローです。
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