ニカラグアのチャモロ元大統領が死去 内戦終結に導き、経済再建に注力
2025/06/15 (日曜日)
国際ニュース
29年、ニカラグア南西部リバス生まれ。裕福な家庭で育ち、中学卒業後に米国に留学した。帰国後の50年、大手紙プレンサの社主と結婚。78年に夫がソモサ独裁政権の手で暗殺され、プレンサ紙の経営に携わった。
79年のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)による革命で国家再建委員に加わったが、革命政権が社会主義に傾いたことを批判し80年辞任。反FSLNの姿勢を強め、90年の大統領選に野党国民連合(UNO)
Violeta Barrios de Chamorro(ビオレタ・バリオス・デ・チャモロ)は1929年10月18日、ニカラグア南西部リバス州リバス市に裕福な農家の長女として生まれました。彼女は中学卒業後にアメリカ合衆国へ留学し、テキサス州やバージニア州で教育を受けた後、1950年に帰国しました。ニカラグアの政治と社会を揺るがす数々の危機の中で、チャモロは後に国家のリーダーとして歴史的な役割を果たします。
幼少期をリバスの広大な牧場で過ごしたチャモロは、父親が肺がんで倒れた1947年にアメリカへ渡り、カトリック系の女子高やブラックストーン大学で学びました。異国の文化と高度な教育を経験したことで、帰国後の広い視野と強い意志が培われたと言われています。
帰国後まもない1950年、チャモロは大手紙『ラ・プレンサ』の社主であるペドロ・ホアキン・チャモロ・カルデナルと結婚しました。夫はソモサ独裁政権を批判するジャーナリストとして知られ、1978年1月10日に暗殺されます。チャモロは夫の死後、同紙の経営を引き継ぎ、独裁批判を続けるとともに国民の声を代弁しました。
1979年7月のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)による革命成立後、チャモロは国家再建委員会(Junta of National Reconstruction)の委員として招かれました。しかし、革命政権が社会主義路線を強めるのを批判し、1980年4月19日に辞任。以後は新聞活動を通じて反FSLNの立場を堅持しました。
1989年末、チャモロは野党連合「国民連合(UNO)」の大統領候補に擁立されます。アメリカ政府の支援と幅広い野党勢力の結集により、1990年4月25日の選挙でFSLNのダニエル・オルテガ候補を破り、中央アメリカ初の民主的選出女性大統領に就任しました。この勝利は8年間続いた内戦の終結と平和への転換点となりました。
チャモロ政権は、就任初日に徴兵制を廃止し、軍縮を進めて国家平和基盤を築きました。コントラ兵士の武装解除を実施し、政治犯の無条件釈放、反目を超えた和解政策を展開。政府機関の腐敗是正や言論の自由回復にも取り組み、戦後ニカラグアの最も安定した時期を実現しました。
一方、戦争で疲弊した経済の再建は容易ではなく、ハイパーインフレや失業率の高さ、インフラ整備の遅れが深刻でした。チャモロ政権は国際通貨基金(IMF)との協調融資や民間投資誘致を進め、小規模ながら市場経済への転換を図りました。しかし、一部では緊縮策の痛みが市民生活を圧迫したとの批判も残りました。
1997年1月に政権を後継のアルノルド・アレマン氏に平和裏に移譲したチャモロは、国民的尊敬を集めました。退任後は「ビオレタ・バリオス・デ・チャモロ財団」を設立し、民主主義教育や自由報道支援に尽力。晩年はコスタリカでの療養生活を強いられましたが、その精神はいまなお民主化運動の象徴として受け継がれています。
ビオレタ・チャモロは、女性として初めて中央アメリカの国家元首となった先駆者です。内戦と超大国の代理戦争に翻弄された国を、和平と民主主義に導いたリーダーシップは、同時期のアルゼンチン・イサベル・ペロンやチリ・ミシェル・バチェレと並ぶ、ラテンアメリカの女性政治家の金字塔として位置づけられます。現在、オルテガ政権下で弾圧される家族や関係者の消息が危惧される中、その遺産は一層重みを増しています。
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