あしなが育英会を設立 玉井氏死去
2025/07/06 (日曜日)
総合ニュース
親を亡くした子どもの学びを奨学金で支える「あしなが運動」を引っ張ってきた、あしなが育英会会長の玉井義臣(たまい・よしおみ)さんが5日午前1時46分、敗血症性ショックのため東京都渋谷区の病院で死去した
あしなが育英会創設者・玉井義臣氏死去──90年の生涯と遺児支援運動の軌跡
一般財団法人あしなが育英会(本部:東京都千代田区)の創設者で会長を務めていた玉井義臣氏(90歳)が、2025年7月5日午前1時46分、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターで急逝された。葬儀は近親者のみの家族葬で営まれ、弔電・供花・香典は辞退の意向とのことだ。:contentReference[oaicite:0]{index=0}
玉井氏は1935年2月6日、大阪府池田市に生まれた。1964年、母親が交通事故で命を落としたことが氏の人生を大きく転換させる。以来、「交通事故被害者の救済」を訴える「交通評論家」として活動を開始し、国内外で被害者支援の必要性を繰り返し訴えた。
1969年、玉井氏は永野重雄氏(元通産相)や岡嶋信治氏らの協力を得て、交通事故で親を失った子どもを支援する「財団法人交通遺児育英会」を設立。ストリートでの募金活動を初めて実施し、寄付者を「あしながさん」、支援対象となる子どもを「遺児」と呼ぶスタイルを確立した。以来、街頭で遺児自身が支援を呼びかける募金運動は日本各地に広がった。
1993年、災害・病気・自死など交通事故以外で親を亡くした遺児支援をも視野に入れた新組織「あしなが育英会」を設立。玉井氏は副会長、1998年には会長に就任し、従来の交通遺児育英会とは一線を画すべく活動を拡大した。募金総額は累計1,100億円を超え、高校・大学進学を果たした遺児は11万余人に上る。:contentReference[oaicite:1]{index=1}
1995年の阪神・淡路大震災では、被災地の遺児に向けた「追悼と学びの家(レインボーハウス)」を神戸に建設。2011年の東日本大震災後も、いち早く被災地入りし遺児支援に当たった。犠牲者の子どもが安心して学べる環境整備を現地と調整し、仮設住宅近くに学習拠点を開設。震災遺児の継続的な奨学金支援を確立した。
2012年以降、アフリカ・サブサハラ地域の遺児高等教育支援を「100年構想」として打ち出し、49カ国から優秀な遺児を選抜。日本を含む世界の大学に留学させ、帰国後は自国の発展に寄与する人材育成を目指した。2025年時点で、これら留学生は延べ数百人に達している。
国内外で遺児支援を行う団体として、米国の「Big Brothers Big Sisters」や英国の「National Children’s Bureau」があるが、玉井氏の募金モデルと奨学金支給の継続性・規模は世界的にも稀有だ。特に街頭募金での市民参加型運動を長期にわたり維持した点が大きく異なる。
玉井氏は度々、奨学金の税制優遇や遺児基本法の制定を提言。2000年代には内閣官房の会合に招かれ、「教育の機会均等」と「社会的包摂」の重要性を訴えた。これにより、奨学金返還免除制度の拡充や、民間奨学金の拠出促進法案が国会で審議された経緯がある。
死去により指導体制の一部再編を余儀なくされるが、会長交代後も副会長や理事らが遺志を継承。特にアフリカ支援部門や震災遺児支援ネットワークは専任スタッフを増強し、留学生フォローアップ強化や募金プラットフォーム刷新を進める方針だ。
玉井義臣氏は90年の生涯を通じ、母の事故死を契機に生涯遺児を「社会の一員」として支える道を切り拓いた。「あしながさん」運動は市民参加型の募金モデルを社会に定着させ、日本の社会福祉史において画期的な役割を果たした。阪神・東日本の大規模災害遺児支援からアフリカ異国における高等教育支援まで、その活動範囲は国内外に及ぶ。
今後は、故人が築いたネットワークと制度を土台に、寄付文化の醸成と遺児支援の法制度化を進めることが求められる。「教育こそが貧困の連鎖を断ち切る」という信念は、次世代のリーダー育成と社会包摂の課題解決につながる。玉井氏の志を継ぎ、あしなが育英会が新たな50年を歩むためにも、国内外の連携強化と政策提言の継続が急務である。
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