スライ・ストーンさん死去 82歳
2025/06/10 (火曜日)
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スライ・ストーンさん死去 ソウル・ファンク音楽の先駆者、82歳 米
【シリコンバレー時事】米国のソウル・ファンクバンド「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」のリーダー、スライ・ストーンさんが9日、ロサンゼルスで死去した。
2025年6月9日、米国のソウル・ファンクバンド「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」のリーダー、スライ・ストーン(本名:シリル・ステファン・オニール)さんがロサンゼルスで亡くなりました。享年82。1960年代後半から70年代にかけて、多文化共生のバンド編成と革新的なサウンドで人気を博し、後続のブラックミュージックやディスコ、ヒップホップにも多大な影響を与えたレジェンドの訃報は、音楽界に大きな衝撃を与えています。
スライ・ストーンは1944年3月15日、カリフォルニア州デトロイト近郊で生まれ、幼少期から音楽一家に育ちました。父親はゴスペルシンガー、母親も教会音楽に親しむ環境で、少年時代にはピアノ、ギター、ドラムなどを独学で習得。10代半ばで家族とともにサクラメントへ移住後、地元のクラブでセッションを重ね、1966年に初のシングル『Watermelon Man』を発表しました。
当初はジャズやゴスペルを基調とした演奏を行っていましたが、黒人音楽が白人市場でも人気を博し始めた1960年代末、ロックやファンクの要素を取り込んだ新たなスタイルを確立。1967年には「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」を結成し、兄弟や義姉弟、黒人と白人の混成メンバーによる人種・性別の壁を超えた編成で注目を集めました。
バンドは1967年、サンフランシスコのサマー・オブ・ラブのさなかにデビュー。リードギタリストのラリー・グラハムが考案したベースのスラップ奏法、リズミカルなホーンセクション、男女混声のコーラスが特徴的な演奏スタイルで、アンダーグラウンドのサイケデリックロックから黒人音楽シーンの両方で熱狂的な支持を獲得しました。
1968年リリースのアルバム『A Whole New Thing』で注目され、翌1969年の『Stand!』でブレイク。タイトル曲「Stand!」や「Everyday People」はビルボードチャート上位に入り、人種差別撤廃や平等を訴える歌詞は当時の公民権運動とも共鳴しました。
1969年のサントラアルバム『Easy Rider』や、1970年発表の『There’s a Riot Goin’ On』など、アーティストとしての絶頂期を迎えます。特に『Riot Goin’ On』は、ファンクの重厚なビートとダークで内省的なテーマを融合させた作品として高く評価され、のちのヒップホップ・ソウルやニューソウルの先駆的なサウンドとされます。
このアルバムでは、ドラムマシンの初期機器を取り入れたリズムトラックや、フェイザーやフランジャーを多用したギター、分厚いコーラスワークが革新的でした。黒人コミュニティ内での不満や自己批判をテーマに据え、商業的成功だけでなくアート性を追求した点がスライ・ストーンならではの挑戦と言えます。
「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」は人種や性別、年齢を超えたバンド編成で統合を唱え、白人と黒人が共に演奏する画期的な存在でした。公民権運動やベトナム反戦運動の時代背景を反映し、ステージ上で多様性を体現。1970年代以降のファンク、ディスコ、R&B、ヒップホップ、ファンクロックなど多岐にわたるジャンルに影響を与え、プリンスやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ダフト・パンクなど後進アーティストからのリスペクトも絶大です。
演奏スタイルにおけるベースのスラップ奏法は、ラリー・グラハム発案として広まり、ファンクベースの定番手法となりました。また、ライブパフォーマンスでのエネルギッシュなダンサー的ダイナミズムは、ミュージックビデオ黎明期の映像作品にもこぞって取り入れられました。
1973年以降、バンド内でアルコールや薬物トラブルが相次ぎ、メンバー間の確執が激化。1974年にはアルバム『Small Talk』が商業的に失敗し、バンドは分裂状態に。スライはソロ活動や映画音楽制作に軸足を移したものの、音楽性の自己探求過多から大衆的支持を維持できず、80年代には消耗戦を強いられました。
それでも1990年代以降、ファンク再評価の潮流と合わせてバンド再結成ツアーを数度実施。新旧ファンが共演を楽しむ姿は復活ムーブメントを象徴しましたが、健康悪化によりステージから徐々に遠ざかりました。
2015年以降は糖尿病や心臓病などで療養を続けつつ、ドキュメンタリー作品のインタビュー出演や若手アーティストのプロデュースを行い、音楽業界への貢献を続けました。最後の公の場は2023年のロックの殿堂入り式典で、その際は体調を顧みずバンドメイトと共に「Stand!」を演奏し、スタンディングオベーションを受けました。
6月9日、家族に看取られながらロサンゼルスの自宅で静かに息を引き取りました。死因は心不全と報じられ、世界中のファンから追悼の声がSNSで溢れています。
スライ・ストーンを「ソウル・ファンクの革命児」と評する声は多く、1960年代末のジェームス・ブラウン、ファンカデリック(ジョージ・クリントン率いるバンド)と並び称されます。ブラウンの“ファンクの父”としてのグルーヴと、クリントンのサイケデリック・ファンクに対し、スライは「多声コーラス」「人種混成」「テーマ性の強さ」で独自路線を打ち出しました。AORやシティポップ、ディスコ以降のR&Bサウンドにも影響を与え、日本の洋楽ファンにも多大な影響を及ぼしました。
ソウルは1950年代後半、リズム&ブルースから派生し、ゴスペルのエモーショナルな要素を融合。1960年代にはモータウンやスタックス・レコードを中心に黒人音楽をメインストリームに押し上げました。その中でファンクは、1965年のジェームス・ブラウン「Papa’s Got a Brand New Bag」あたりからビートを強調するスタイルとして確立。スライはその発展系として、よりポップで多層的な編曲とメッセージ性を加えたことで、ファンクを社会運動と結びつけた革新的な存在となりました。
これらの功績は、ストリーミング時代の現在でも色褪せることなく、多くのリミックスやカバー、サンプリング作品に息づいています。
スライ・ストーンさんの死去は、ソウル・ファンク史における一つの時代の終焉を意味します。しかし、その音楽と精神は今後も世界中のアーティストとリスナーに受け継がれるでしょう。彼が掲げた「愛と平等」「ダンスの喜び」「音楽の自由」は、これからも多くの人々にとっての希望のアンセムとなり続けます。安らかにお眠りください、スライ・ストーンさん。
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